ゆく年くる年
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とはいえ、わざわざ前夜にインターネットを介して落手したこだわりの連番シートであるし、私たちが席を移るのは癪というもの。
館内はがらがらである。我らの一角だけがやたら混雑しているのは傍目にも奇異に映るし、彼らとしても、席を移ったほうがスクリーンが見やすいであろう。
だから彼らが動くだろうと悠然とかまえていた。
まあよい。スクリーンが見にくいのは彼らの側での問題であって、私たちのまえには視界を遮るものがいっさいない。背後に人がいるのは少しく気になるが、いったん映画が始まれば集中し、彼らの存在など意識から締め出されることだろう。
鷹の爪団が館内での各種タブーについておもしろおかしく言い含めたのち、予告が始まった。
と、背後の女が声を殺してなにやら話しはじめた。ひそひそ声なので私の耳にはくぐもった音の塊としてしか聞こえてこないが、これが耳に障る。いらつく。
でもまあ、まだ予告編。本編が始まったら、いくらポンコツ女でも口をつぐんで映画を観ることでしょう。そのための映画館ですから。
本編が始まった。
女、まだしゃべっている。あいかわらず話の内容は聞き取れないが、男の肩を手で軽やかにはたくといったスキンシップを挟みつつ、夜、寝床に入ったとたん響いてくる蚊の羽音のような声でひそひそ話している。
参った、気が散って映画に没頭できない。ふと隣に目を向けると、暗がりに鬼神と化した嫁の顔が見えた。まずい、お冠である。
が、逆ギレなんつって、道義を説いたほうが刺し殺される時代である。出方を誤れば殺される。
こういうときの三船敏郎。
たとえば「七人の侍」の三船はテンションが高すぎて、はっきりいってなにを言っているのかまったくわからない、聞き取れない。だが、その凄まじいまでの迫力に観客は圧倒されるのだ。
私は身も心も三船敏郎になりきると、エクソシストのように首をぐるんと捻って振り向き、
「おしゃら、じゃらなんじゃらんじゃら~!!!」
と叫んだ。
カポーは沈黙した。うむ。
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嫁と映画鑑賞。
いきつけの映画館はトーホーシネマズ。世のなか便利になったもので、トーホーシネマズ系列のシアターでは鑑賞券を購入するためにわざわざ窓口に並ぶ必要がなく、まえもってインターネットで好きな座席を確保できる。
並ぶことを忌み嫌う私たちにとってはまさに救世主のようなシステムである。
てなわけで、我ら夫婦はその利便性をあまねく享受し、勝手流に
「指定席」と名づけた連番の席を押さえてから出かけるのが恒例となっている。
今ではもう、その席にしか坐りたくないので、かかる「指定席」が他者に占拠されているとすっかり気分が萎え萎え、どんなに観たい映画でも取りやめにするほど。
それをして「こだわり」と呼ぶ、いや、呼びたい。「阿呆」と紙一重ではあるが。
トーホーシネマズに到着し、コンセッションでぽっぷらこーんとこけこーらを買い求めたのち、こだわって購入したこだわりの「指定席」に馳せ参じてみると、これはどうしたことか、シアターはがらがらで閑古鳥が鳴いているというのに、私たちがこだわって確保した二つ並びの「指定席」の背後に若いカポーが陣取っているではあーりませんか。
はは~ん、キミらも同じことを考えていたのだな。この「指定席」の心地よさを知っているとは若いのに見どころがあるが、ふぉっふぉっふぉっ、グリーンね。
我ら夫婦はこの「指定席」を確保せんがためにすでに昨晩、インターネットにて空席照会を行い、チケッツを購入しているのだよ。キミたちは一歩どころか百歩遅い。
それでも「指定席」を諦めきれない彼らは、おそらく、かかる「指定席」を背後から徹底マーク、照明が落ち、予告が始まり、本編が開始して十分くらいしてもそこが空席だったら俺たちでうひゃうひゃ坐っちゃおうぜ~なんて虫のいいことを考えていたのであろう。
すまんな、若いの。じゃが、今回は、我ら夫婦がこの「指定席」に賭ける想いが、キミたち若者のいきあたりばったり的想いに勝ったということ。
そこはかとない優越感を胸のなかで飼いならしつつ、こだわりの「指定席」目指して栄光の階段を一歩、一歩のぼっていくと、嫌な感じがした。
そのカポーは意外と歳がいっていた。しかも、女のほうは顔が緩みっぱなし、頭のてっぺんに赤いチューリップをぱかっと咲かせていたのである。
こいつはしゃべるぞ、と思った。
後編へつづく。
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が、その先の解釈が難しい。
つまり、私が未熟なのはわかった。そんなことを野菜である大根に教えられるとは人として情けないかぎりだが、夢は心を映す鏡だという。どんなに体面を取り繕ってみても心だけは偽れぬ。やはり碧大根の言うとおりなのだろう。
だが夢のなかで私はかかる碧大根をむさぼり食っていた。これはいったいなにを意味するのか。
この事象を前向きにとらえるなら、私はおのが未熟さの象徴たる「心象的碧大根」をかたっぱしから食べているわけで、それはつまり、その未熟さを克服せんとする私の姿勢の顕れなのかもしれぬ。
だが、そのいっぽうで、「心象的碧大根」を魔物に憑りつかれたように食らっている私は、おのが未熟さを隠ぺいし、心の闇に葬り去ろうとしているのだという解釈もなりたつ。
これはまずい。つまり、私は笑っちゃうくらい未熟なくせに、それに気づていおらず、あまつさえ、その未熟さが表面化せぬよう無意識のうちに自我を偽って暮らしているのである。
教えてくれ碧大根。
このままでは私は、未熟の海を漂泊したあげく未熟の渦に呑み込まれ、一生、大人になれないまま、大根にあざ笑われながら朽ち果ててゆくことになる。
大根さん、たしかに私は幼きころ、ピンポンダッシュに夢中でした。エレベータに乗ったら乗ったで、降りぎわに階数ボタンをぜんぶ押してから全力ダッシュ、無人のエレベータが各階にせっせと停止するさまを柱の陰からイヒヒと見物していたものです
。
しかしながら、そうした非道徳とはとっくに縁を切り、今では一人前の大人として税金や年金を払いつつ、まっとうな人生を歩んでいるつもりです。
が、食材配達のおばさんがピンポーンと我が家にやってくるたび、ジェイソンのお面をかぶって出迎えたら腰を抜かすだろうなあ、などと夢想してニヤニヤしている私って、やっぱり未熟なのかしらん。
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が、私ときたら、碧い大根に囲まれる夢を見た。
夢に理屈を求めても仕方ないが、それにしてもわけがわからない。しかも、ただ「青い」のではなく「碧い」。澄んでいて色鮮やかで宝石のように輝いているのである、大根のぶんざいで。
そこはワンルームマンション風の一室で出口は見当たらない。四方の壁には段々になった木製の棚がぐるりと設えてあって、その棚に碧い大根が人形のようにずらりと並んでいる。
経緯は不明だが、どうやら、私はこの「碧大根の間」に閉じ込められているらしい。まったく理不尽な話である。ひどいことするなあ、もう。
と、そのきらめく碧大根が語りかけてきた。
さあ、食べなよ、食べなよ、食べなよ……と。
当然、大根に話しかけられることに慣れていない私は面食らった。が、冷蔵庫だってしゃべる時代である。能ある鷹は爪を隠す。大根だって本当はしゃべれるのに、あえて無口を装って白々しい顔を作っているだけかもしれない。
私はその声に導かれるまま、棚から碧い大根をむんずとつかんで口にあてがい、これに食らいついた。
シャリ、シャリ、シャリ、シャリ。
一本食べ終えると隣の大根が食べなよ、食べなよ、と誘ってくるので、また棚から取って食べる。それを食べ終えたら次の大根を、さらに次の大根を。
数十本の碧大根をたいらげたところで目が覚めた。
朝食時、賞味期限の切れたパンをもそもそ舐めながら、嫁に夢のことを話した。
と、嫁が口にした答えに、私は後頭部をメガトンハンマーで殴打されたような衝撃を受けた。
嫁いわく、碧い大根は私の未熟さの象徴――つまり、私はまだほんの「青二才」であって、だからこそ夢に出てくる大根も「碧い」のだと。けだし鋭い洞察である。フロイトもびっくりである。
が、その先の解釈が難しい。
後編へ続く。
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とにかく、猫たちが摩訶不思議な特殊能力を隠し持っていたとしてもなんら不思議はない。
たとえばあの触れたら心地よい肉球からは「ニクキュスピネル(仮称)」という目に見えない化学物質が分泌されているのだ。「ニクキュスピネル」にはパブロンと同じような成分が含まれており、私も嫁も、肌と肉球との何気ないコンタクトを介して日常的に「ニクキュスピネル」を体内に摂取、結果、風邪を寄せつけない肉体を勝ち取った。
晩秋に波打つ薄の穂のごとき腹部からは「フワフワスミラビラカイゼル(仮称)」という一種のオーラが放出されていて、これが腹痛、歯痛、頭痛などの各種痛みを和らげてくれている。
同様に髭からは「ヒゲポン(仮称)」が、鼻からは「ハナスクルシャスメラ(仮称)」が、尻尾からは「シッポクシッポク(仮称)」が。
なーる。それで我ら夫婦はこの弐年間、無病息災だったのか。やったね。
と、ひとり得心していた矢先、嫁が風邪を引いた。つづいて私も。
「猫は風邪にきく説」をかたくなに信じていた私たちはショックのあまり絶句、ゾンビと化してその場に立ち尽くした。ぽかりと開いた心の隙間をぴゅうと吹き抜ける冷たい木枯らし。意識の片隅にわんわんと響き渡る「たこで~す、たこで~す」というたこ八郎の声。互いに虚無的な顔つきになって放心した。
震える手つきでなんとか熱を計ってみたら、幸い、平熱を少し上回ったていどでたいしたことはなかった。
互いに軽症で済んだのはとりもなおさず、猫が風邪にきいたからであろう。つまり、「ニクキュスピネル(仮称)」を普段からせっせと体内に取り入れていなかったら、今頃夫婦そろってインフルエンザ、肺炎、結核などの凶悪な病にかかっていたに相違なく、不帰の客となっていたかもしれぬ。いや、絶対にそうだ、そうに決まってる。
よかった。肉球のおかげで九死に一生を得た。
と、思ったら、また嫁が風邪を引いた。
つまり、またもや肉球に命を助けられたわけで、けだし幸運な嫁である。
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なんでも、野良猫たちは一時、20匹以上いたが、加藤氏が去勢・避妊手術、里親探しを行った結果、現在では4、5匹に減っているらしい。
刮目すべきは、この情報が訴訟した側の老人の口から発信されているという点であり、したがって信憑性は高い。
つまり野良猫問題は解決、少なくとも改善されつつあった。となると、彼らが
なぜその流れに水を差し、今になって加藤氏を訴えたのかますます解せない。4、5匹であれば、それこそ全員の協力によって裁判に持ち込まずとも解決へと導けたはずである。
最初に餌をやった元名人が最後まで責任をとるべきだ。そういう意見もある。が、氏はすでに「野良猫を餌づけした」点については非を認め、大人の態度を見せているのであって、それでもなお、いや、それでもお前が餌づけしたせいで猫が増えたんだからワシらは無関係じゃ、お前がぜんぶやれ、てめぇのケツはてめぇで拭け、と突き放すのはガキの喧嘩と変わらず、当の問題はいつまでもそこに燻りつづける。
文句を垂れるだけで解決策を講じないのであれば、議論は平行線をたどるのみ。議論とはそもそも、互いの脳漿を絞り合って最良の答えを見つけるためにあるのだが。
反論は議論に欠かせないが、反論したのち、自分なりの解決策を提示しないかぎり、その議論は建設的にはなりえず不毛に終わる。会議などで、部下の提案に難癖をつけるだけつけて、いざ自分に振られるとだんまりを決め込む卑怯な上司と変わらない。
こういう上司は難癖をつけることで満足し、得意がる。結果的に問題の解決が遅れるわけで、それは本人にとっても由々しき事態であるはずなのだが、なぜかそうした矛盾には目をつぶって文句を垂れつづける傾向にある。
この件でも、双方の目標は「野良猫がいなくなること」という点において共通しているはずなのだが……。
無責任な飼い主に捨てられ殺処分される犬・猫は毎年数万頭にのぼる。地域猫活動や野良猫の避妊・去勢活動も、根源的にはそうした不幸な動物たちを少しでも減らすための苦肉の策であり、もっと倫理的にも人道的にもすばらしい解決法があるなら、それに越したことはない。
少なくとも、加藤氏は自身の非を認め、問題解決に向けて身銭を切って活動していたようである。
子供のころ、野良猫はそこらじゅうに景色の一部として存在していた。もちろん騒ぎになることもあったが、それが地域を飛び出した騒ぎに発展することはなかった。ましてや訴訟など。
なんともやりきれない。(了)
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猫は風邪にきくか?
である。
というのも、拙宅にねこ~ずがやってきてから弐年になるが、そのかん、私も嫁も不思議と病に伏せることがなかった。それまでは巷で感冒が流行れば時流に追いつけとばかりに私が感冒にかかって昏倒、夜中、救急病院に連行されたり、嫁は嫁で、親知らずが虫に喰われて激痛のあまりに悶絶、夜通し恨みのことばを吐きながらひい~ひい~とうめいていたり、そんな二人だから、初歩の病ともいえる風邪なんかを累次もらってきては寝込んでいた。
が、嫁があの運命の夜、うらぶれたチャイニーズレストランの駐車場にて幼い茶とら猫を拾ってからというもの、二人とも病とは縁遠くなった。
風邪すら引かなくなった。
そこで考えた。
つまり、私と嫁が病気知らずの体に生まれ変わったのは、奇しくも、アシスタント壱号(とら猫)が家族に加わった時期と一致している。ならば、この突然の健康化の原因はそも、猫にあるのではないか。
たとえば私は南蛮語との格闘に疲れると、その荒んだ心を癒すため、アシスタント壱号の毛むくじゃらの腹に顔をうずめ、あ~綿菓子みたいにふわふわ~と呟いてみたり、お客さんハンコもらえますかと言ってピンク色の肉球を頬に押しつけてみたり、いただきますと一言断ってから鼻をかじってみたりする。
動物は謎に満ちている。ニンゲンは文明化と引き換えにその本能や野生を
失ったが、彼らはちがう。生きるための様々な能力を有している。猫だったら、寒くなれば冬毛を生やかしてぬくぬくできる。ニンゲンの髭なんぞむさ苦しいだけだが、猫のぴょーんと伸びた髭はアンテナの役割を果たし、そこからサヴァイバルに必要な各種情報を収集、適時判断する。
となると、彼らがいまだ解明されていない特殊能力を秘めていたとしてもなんら不思議はない。
後編につづく……。
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加藤一二三元名人が野良猫への餌やりで訴えられた件で、進展があった。
先の18日、東京地裁八王子支部で第1回口頭弁論が行われ、加藤一二三元名人は答弁書のみを提出して欠席したそうだ。
そのなかで加藤氏は「野良猫に餌をあげていることは認めるが、動物愛護の精神のもと無制限、無秩序に猫が増えることを防止している。なんら違法性はない」と主張。
これに対し原告側は「受けた精神的苦痛は計り知れない。和解もありうる
が、慰謝料なしという案はのめない。猫が敷地に入らないよう柵などを設置する費用もかかっている」と反論。
ということらしい。
前回も述べたが、はっきりいって私はこの裁判の勝敗に興味はない。
そんなことをする暇と金とエネルギーがあるなら、とにかくまず、今そこにいる野良猫たちをなんとかしてやりなさいよ、あんたら。それからニンゲンたちで好き勝手に喧嘩してください、飽きるまで。と考えている。
ただ、上述の口頭弁論の双方の言い分から、いくつか浮き彫りになってくることがある。
とりわけ違和感を感じるのは、原告側の「和解もありうるが、慰謝料なしという案はのめない」という主張。
これは翻訳すれば「金さえ払ってくれるなら、まあ、手を打ちましょうか」と宣しているに等しく、顧客たる原告団にこうした幼い発言を許してしまう担当弁護士ってどうなんでしょう。
思うに、彼らはかなり感情的になっている。そして、暴走しがちな彼らを弁護士が制御しきれないでいるのだ。
でなければ第一回目から「金をよこせ、金を」なんて身も蓋もない主張
に及ぶとはとうてい思えない。裁判が一種のアピールの場である以上、もっと被害者らしく振る舞って然るべきである。世間の同情を買うためにも。
だが彼らはそうした「法廷劇」の部分をすっ飛ばしてダイレクトに「金をよこせ」と訴えている。しかも、猫たちの今後についてはいっさい触れていないところがとても悲しい。
おそらく加藤氏はあきらめの心境にあるのだ。もはや言いたいことは言い尽くしたと感じており、それを改めて法廷で訴えるのはしょせん、これまで庭先で彼らと行ってきた議論の再現にすぎな
い。だったら、もう、私の言い分はこの答弁書にすべて書いてありますから、あとはもうそちらで煮るなり焼くなりしてください、と。
加藤氏はたぶん負ける。そして満額はありえないが、避妊手術や里親探しを行っていた事情が斟酌され、いくらかの慰謝料を払わされることになる。
が、元名人たる加藤氏は、勝負師の勘でもってその展開を読み切り、裁判をさっさと終わらせて猫たちを助けるほうに集中しようと腹を決めたのではなかろうか。
まあ、わかんないですけどね。なにしろ加藤一二三ですから。
とにかく、今そこにいる猫たちをなんとかしてください。
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猫ランド。ようするに、
都会になんら未練はないので猫といっしょに田舎で暮らたいな~、
ということである。
都会にいると、この国にはもはや土地なんぞ残っていないのではと思いがちだが、それはあくまでも都心部にかぎった話、金になる土地の話であって、ちょいと郊外に目を向けてみれば、たちまち山、川、森。牧歌的とは言わないまでものどかな田園風景が広がっている。
今でこそ私はしがない翻訳人、いわゆるフリーランスとして幸いにも生計を立てられているが、誰でもいくつかの暗黒時代を経て今があるわけで、私もかつて上司がイラン人と元暴走族という怪しげな宅配弁当屋で住み込みで働いていたことがある。
そこで「寮」と呼ばれていたその住宅は棄てられた一軒家を買い取ったもので、庭では雑草がぐん伸び、風呂場ではナメクジがずるずる、台所では黒光りするヤツが這いかつ飛びまわり、家のなかには文字どおり「放し」飼いにされた犬の糞尿の臭いが満ち満ちていた。
と、この「寮」の闇を掘り下げていったら切りがないので、これについてはまた改めて語りつくしたい。
とにかく。その「寮」でがるると唸っていたことも、しばらく職に就けず呆然としていたことも、家が火事になって命からがら逃げ出したこともある。
そういうわけで逆境にはわりかし強いほうだと思っている。
だから、仮に今、自分が独り身で仕事もなく途方に暮れているとしたら、おそらく、人里離れた山奥に安い土地を買ってそこにテントを設営、大根や人参を育ててはこれを食らい、近くの駅でギターを弾いておひねりを頂戴し、防寒対策には抱いたら暖かい羊かアルパカを飼い、金に困ったらその毛を刈って売ることで糊口を凌ぐ、なんて暮らしに踏み込んでいたかもしれない。
江戸川の河川敷にテントを張っても暮らしていける自信はあるが、そうする
くらいなら、私はアコム、プロミスしてでも100万くらい工面し、上述のように山に隠遁するほうを選ぶ。
なんとなれば、そっちのほうが発展性(金脈を掘り当てる、近くに温泉が湧き出て地代が高騰するなど)があるし、親類縁者の皆々さまにも「や、ホームレスをやってるのではなく、自然に還ろう! というテーマのもとエコロジカルな暮らしをみずから体現しているのでありまして」などなど言い訳をつけ、体裁を取り繕うことも可能だ。
もっとも現状では家族も猫もいるし幸せなので、そんな酔狂に及ぶつもりは毛頭ないが。
つまり、私はしがないながらもフリーランスであり、一般の勤め人に比べたら渡世のしがらみが少なく、たとえば、明日にでもラップトップを抱えて単身渡米、各地を放浪しながらインターネットを介して働くなんて無謀もやってやれないことはない。
それは極論だとしても、その伝でいけば、なにも都会に拘泥する必要はまったくなく、いきおい家人と猫たちを連れて田舎に引っ越し、そこで質素に、素朴に、のんびりと暮らすのも良きことかな、と思い至ったのである。
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ひからびた時間に夢という水をまき
なんとかほんとうの出口をさがし歩く
なんてシオンは歌ったが、人は夢を抱かないと生きてはゆけぬ。
が、夢といっても、小指一本で世界を征服してやるとか、どの街角にも自分の等身大の銅像を建立してやるとか、全国の「セブンイレブン」の店名を「セブンイレブンな~んちゃって実はイレブンセブン」に改めさせてやるとか、そういった壮大かつ大胆なものである必然性はいっさいこれなく、むしろ「生きていく糧となるもの」であって、言い換えれば「ささやかなる希望」である。
だが、昨今のトキオにおいては、こうした夢ですら狂ったような雑踏のなかで揉みくちゃにされ、擦り減って一寸の欠片となり果て大手町地下鉄連絡通路の片隅にひっそりと転がっているのであり、一部の金持ちしか買うことのできない特製ゴーグルを装着しないかぎりそれを見つけることはできない。
「ニート」なんてことばが紙面に踊るようになってから久しいが、彼らとて好きでそうした境涯に甘んじているわけではなく、やはり、トキオは暮らすだけでも冗談みたいな金がかかるし、少ない稼ぎから容赦なく公租公課を取り立てられるため、途方に暮れながら日々を過ごしているのであろう。
資本主義がしょせん現ナマという有限のチップを使ったマネーゲームである以上、そこには勝者と敗者が存在し、貧富の差が生まれるのは必定である。
問題はそのあとで、本来、ぼろ儲けした勝者がその金子を社会にそーれと還元することでシステムが機能し、衰えた景気も持ち直すわけだが、現在はこの勝者が金を貯め込んで手放そうとしない。某小室氏なんかは海外でどんぶり勘定の投資を行い自爆しているわけで、国内に流れるべきマネーが海を越えて流れてしまったら、良民はこれにあやかることができない。
ないところから金は取れぬ。されば、あるところから取るしかない。
が、国の舵取りたる官僚たちは邦家の将来を憂うような発言をしつつ、裏では上述の勝者たちと寿司をつまんで談笑し、わずか壱萬弐千円のわいろでもってお茶を濁そうとしているのであり、これはもう紛うことなき外道
である。
いつの世でも、社会的弱者である若者が搾取されやすい立場にあることは変わらない。
だからこそ、彼らのわだかまった鬱憤のはけ口として竹の子族やらパンクロックやら学生運動やらの各種ムーブメントが発現するわけだが、それとてささやかなる夢が路傍にごろごろ転がっていればこそで、バブルがはじけ社会の高齢化が進み未曾有の金融危機が叫ばれる昨今において、そうしたエネルギーはやはり内へ向かうのしかなく、引き籠らざるをえないのかもしれぬ。
もはやトキオは、これがファミコンなら、リセットボタンを押さねば二進も三進もいかないような状態にある。
いざ、地方へ。
猫ランドへの道、第一章へ続く……
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アシスタント1号からのお知らせ。
トランスレーション猫は現在、締切前でゾンビ(ロメロの)と化しておりますので、快方に向かうまではこちら「ねこ~ずの森」を、仕事の箸休めにお楽しみください。よろしくお願いします。
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もっとも、「忙しい」は忌むべきことではなく、むしろ両手を広げて米国人風にウェルカムすべき事象だが、それでも「忙しい」「忙しい」の連発だと心にゆとりがなくなってささくれ立ち、社会的没交渉に陥る恐れすらあり、かといって「忙しい」がさっぱりなくなれば収入源を断たれて米塩に窮することになり、猫たちもとても困るので、やはり「忙しい」がいいに決まっているのだが、
眼が疲れる。肩が凝る。
そも、人間は冷血なマシーンではないのでその集中力にもおのずと限界があり、おおむね「1時間」と言われる。がため、適度に休憩を挟まないとあっという間に心が腐ってしまい、いい仕事はできない。
ただ、ひとえに休憩といってもその取り方は千差万別であって、昼寝なんてのが代表格だろうが、なかには散歩とか、ニンテンドーDSとか、呆然と空を眺めるとか、妄想にふけるとか、まあ、いろいろある。
集中力が、あ、やばくなってきたなと感じたら、男らしくさっぱりと仕事を中断、ギターを手にとりアンプの電源を入れてスタンダップ、ジミヘンなんかをぺけぺけ弾き、ときに歌い、叫び、ヘッドバンキングをする。
こうしていると、やがて、パソコンに倦んだ眼やら肩やらがすうっと軽くなり、ソウルが浄化せられ、一曲めでたく終わるころにはすっかり復活、また新たな気持ちで原稿と向き合えるのである。
ただ、心身ともに衰弱著しい締切直前などは、どんなにニール・ヤングを
激しく弾いてもソウルが浄化されるまで数曲かかってしまう。
そうなると傍目には、ろくに仕事もせず、ギターを弾いて遊んでいるようにしか見えないのが難点だが、実際にはそのときこそ、チョーキングによって紡がれる音符とともに、溜まった「疲れ」がぎゃんぎゃん放出されているのであって、なにもしていないとは失敬な、ものすごく忙しいのだ。
そんな折、弦が切れると、いと哀し。
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こういう話になるといつも思うのだが、
そりゃ、糞尿なども大変なのかもしれませぬが、まず、猫が増えているという現状をなんとかしましょうよ。みなさん訴えるほどのエネルギーがおありなら。
そののち、好きなだけ裁判でもなんでもやって、あっちが悪いとかこっちが悪いとか責任を追及すればいいじゃないですか。
責任、責任といくら喚き散らしたところで、開いてしまったオゾンホールは埋
まらないし、切られてしまった森の木は生えてこないし、過ぎてしまった時間は戻らないし、増えてしまった猫は減りませんので。
10匹か。
たしかに、我が家でもやっているが、里親さん探しは根気がいる。
それでもだ。
自分の家がダメなら会社の同僚に聞いてみるとか、友人をあたってみるとか、友人の友人に声をかけてみるとか、友人の友人の友人に頼んでみるとか、今ではインターネットなんて便利なツールもあるわけだし、加藤氏と原告9世帯が本気になって協力すれば、まあ、世知辛い世の中ではあるが、半年くらいで里親さんが見つかるの
ではないか。これだけ話題にもなってるし。「書面にて餌やりの中止を求め」てきたそうだが、それではまったく解決になっていない。
もっとも安価で穏便な解決法は、あんたには負けましたよ、一二三さん、よし、みんなでその猫たちの世話をしていきましょう、と発想を転換することであるが、たいていの人は余計な責任を負いたくないのでなかなか難しいだろう。
みなさん、いつになるとも知れない司法の判決が下るまで、じっと耐えておられるわけですか? で、慰謝料を受け取ったら精神的苦痛が和らぎ、すべて笑って水に流せると?
双方に言い分があるんだろうし、なにせあの豪傑、加藤一二三が絡んでいるわけだし、詳しい事情もわからないので、私は突っ込んだ話はしない。
そういうことは、それこそ裁判ではっきりさせたらいい。
猫たちの新しい家が見つかったあとで、好きなだけ、飽きるほどはっきりさせたらいい。
虚しい、虚しい、嗚呼、虚しい。
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ことばを誤って覚えていて、ふとしたときに友人に指摘され、初めてその誤りに気づくなんてことが生きているとこれ、結構ある。
私の友人なども「ふくらはぎ」のことを「ふくろはぎ」と覚えていて、本人いわく、筋肉の盛り上がり方がどことなく「袋」を連想せしむるでしょ、ね、それで「ふくろはぎ」なの、ということらしい。
初めて聞いたときは腹が捩れるほど笑ったが、よくよく考えてみると、これは言い得て妙というか、確かにふくらはぎのもっこりした感じがどことなく「巾着袋」を思わせ、そういう意識をもって「ふくらはぎ」に接していると、次第にそこが「ふくろはぎ」に見えてくるから妙なものである。
漢字にしたら「袋萩」か。いいね、季語っぽくて。秋の侘しさを醸していて趣がある。ここで一句。
久方の ジムで攣ったは 袋萩
「ふくろはぎ」はさておき、過日、私もこの手のミスを犯していることに気づ
いた。
「人間ドック」である。
幼少のころより「人間ドッグ」だと思っていた。
なんでかっつーと、ありますよね、「CTスキャン」っていうマシン。あの装置にヒューマンがういんういんと吸い込まれいくさま、どことなく「ホットドッグ」が連想せられません?
「ホットドッグ」にとっての「ウインナー」が「スキャン装置」にとっての「ヒューマン」というかね。
それでそうか「人間ドッグ」なのか、とひとり膝を打ってなーると納得していたのだが、それがまさかまさかまさか誤っていたとは。
なんでこの失態に気づいたか。
イーメールを送ったんですね、お得意先に。
明日は「人間ドッグ」のため一日家を空けることになり云々、と。
すると先方から返信があって読んでみると、
わざわざご連絡ありがとうございます。「人間ドック」で異常が見つからないよう祈っております云々、
と書かれていて、最初は、あれ、「ドッグ」の「ク」に点々がついてないよ、はは、つけ忘れちゃったかな、と安閑としていたが、もしやと思い辞書をあたってみたところ、がーん、吾輩が点々を余計につけておますのかー、「ホットドッグ」とごうも関係ないやんけ~っということになって赤面、いてもたってもいられなくなり、本棚の文庫本を「アイウエオ」順に並べたりしてようやっと落ち着きを取り戻した。
ちなみに、「人間ドック」ではとくに異常も見つからず、前回より体脂肪が激減していたこともあって先生にえらい褒められた。
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続き。
もっと詳しく言うと、あの「ぷっ」はややもすれば、ちょっとお兄さん、メガネがずれてコントみたいになっていて危ないっすよ、路肩にお車をお寄せになっておメガネのずれを調整しておくんなまし、向後のためにも、と私に忠言すべく、通りすがりの見知らぬドライヴァーがその掌の微妙な圧力と加減によってクラクションの音域をコントロールして紡ぎ出した優しさの「ぷっ」、あるいは「ぷぷっ」「ぷふぁふぁ~ん」だったのかもしれぬ。
いや、違う。あのとき私のメガネはずれていなかった。寝癖もついていなかった。少女マンガのような瞳をしてもいなかった。
となると、あの「ぷっ」は老婆心からの「ぷっ」ではなく、やはり、なんらかの怒りを表明した「ぷっ」ということになるのだろうか。
しかしそれではあの「ぷっ」という音の調子があまりに軽薄すぎるし、腹立ちまぎれのク
ラクションにしてはいささか迫力が足りない。ほんとうに激怒していたなら、その音は「ぷっ」ていどでは済まないはずである。
たとえば「ぷぷぷぷぷぷぷぷぷっ」とか「ぷひゃぷへぷほぷひぷひゃら~」とか、「ぷぽんぽんぽんぷっぷっぷっ」とか、「ぷぷ、ウン、ぷぷ、ウン、ぷぷ、ウンウン」とか。
マジギレしてスーパーサイヤ人みたいな怒髪天を衝く状態になっていたとしたら、逆に、「ぷっ(怒りのオーラを送る)、ぷっ(クレッシェンドで)、ぷっ(呪いの言葉をぶちまけてブードゥーチャイルを狂ったように歌う)」という、
普段黙っているやつが怒るとすっげぇ怖いよ的な効果を狙った三段階のクラクションをかましてくるのが一般的ではなかろうか。
ああ、悩ましい、わからない。
なんだか収拾がつかなくなってきたので「こども相談室」に訊いてみよう。にゃ~。
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というのも、運転それ自体はどんな状況下でも過不足なく対処できると自負するが、ことクラクションに関しては腕が未熟というか、まだまだ至らぬ部分も多く、使いこなせていないと感じるため、使用を自粛しているのである。
こう言うと、クラクションなんてただ「ぷっぷっ~」と鳴らすだけだし、使いこなすもクソもあるかってんだ、こんこんちきのチンチラプー、なんて厳しく咎められそうだが、それは甘い。
実例を挙げる。赤信号が青に変わっても目の前の車が岩のように動かない、なんて場合、
私は少し待ってからクラクションを「ぷっ」と軽やかに跳ねるように鳴らす。「お兄さん、信号が青に変わっておりますよ」という意味で。
鳴らされたほうも、あ、信号が青に変わってるやんか、ごめんね、後続の方々、今すぐアクセル踏んで出発しますから、と了解、車を発進させる。
クラクションを介した車と車の会話が成立したわけである。
このような、状況に鑑みてクラクションの「ぷっ」の意味を正しく解釈できるという場合なら、私はむしろ進んでク
ラクションを鳴らす。クラクションを介して意思の疎通を図れる自信があるからである。
が、公道はむしろそうでない場合が多い。
今日もすれ違いざま、対向車から「ぷっ」と一発やられたが、その意図するところがまったくわからない、伝わらない。私はただノホホンと走っていただけだし、一見したところ、相手の車もノホホンと走っていたように思える。
結局、その車は「ぷっ」とだけ冷たく吐き捨てて走り去っていった。こっちは
置いてけぼりカヨー、わけわかんないヨー、である。
だが、ここで私のクラクション術の未熟さが関わってくる。
つまり、彼のクラクションは私には「ぷっ」と聞こえたが、彼の側では「ぷぷっ」あるいは「ぷふぁ~ん」のつもりで鳴らしており、それを悲しいかな、クラクション術の未熟な私が聞き分けられなかった、という可能性がある。
後編に続く。
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なんと17年ぶりである。ボストンなんてバンドもアルバムを発表する間隔が7年に1度くらいだったような気がするが、ガンズはやはりスケールが違う、器が違う。うーん、マンダム。
さっそくアマゾンにてクリック、クリック、クリック、ぽんと購入、送り届けられた妙にかさばる段ボール箱を引きちぎって開け、17年ぶりに手にするガンズの新しいコンパクトデスクを手にとって、ひとしきり感慨に耽ってみた。
特に胸に去来するものはなかった。
だって、ガンズっつったって、スラッシュもいないし他のオリジナルのメンツも
いないし、アクセルだけなんだもの。それでも、この新譜は飛ぶように売れているらしいから、まったくガンズの底力たるや驚きである。
振り返ってみればこの17年間、アクセルは新譜を出す、出すと思わせぶりな発言をしては撤回するという愚挙を繰り返してきたのであり、これが尋常の勤め人なら、とっくに愛想をつかされ、会社から暇を出されて然るべきなのだが、アクセルはそんなん知るか、おれが法律だと言わんばかりにわが道をずんずん突き進んできた。
まったくもってうらやましい。
仮に私がアクセルの生きざまを見習い、たとえば本日が締切の案件をいざ納品するという段になって、このフォントが気に入らんなあ、この漢字を開こうかしら、この一文にソウルが欠けているのでいったん録りなおし、ロックのスピリットを詰め込みたい、といった理由から納期を延ばしたいとの旨、取引会社にイーメールにて通告した場合、私は即刻契約を解除されるか、仕事の量が尻すぼみになっていくか干されるかして、生活が立ち行かなくなり、公園で池の鯉にパンくずを撒きながら途方に暮れるという羽目になる。
それはわかりきっている。
世界広しと言えどもアクセルの代わりが務まる人間は皆無だが、しがない翻訳人の代わりが務まる人間は山ほど、とまではいかないまでも、まあ、結構いるのである。
悲しいなあ。切ないなあ。
やはり翻訳とロケンロールは両立しえぬのか。うーむ。
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てなわけで、爾来、小生の愛称は「ジーパン」と相成りました。めでたし、めでたし。
って大団円を迎えることはなく、この飲み会後、しばらくは何人かが私のことを「ジーパン」とはにかみながら呼んでいたが、そうする者たちがひとり、またひとりと減っていき、ときは流れ、今現在、このしがない翻訳人に「やあ、ジーパン」なんて声をかけてくる輩は日本全国津々浦々を探しても、ただのひとりも存在しない。
ここにおいて、私の「ジーパン化」はもろくも失敗し、霧散し、思い出すのも恥ずかしい過去
のひとつに成り果てたのである。合掌。
そも、なんで頓挫したのかしらん。
やっぱりこっ恥ずかしいんじゃないかな、「ジーパン」なんて呼ぶのは。人として。
酒が入って頭がぐるぐるしている宴席ならまだしも、酩酊状態から覚めて、ふと我に返ったとき、やはり、いやしくも同僚に対して「ジーパン、これお願い」とか「ジーパン、チェックインが来たよ」とか「ジーパン、パン買ってきて」とかのたまうのは抵抗があるというか、素面だと照れてしまい、そんなことを言っている自分がバカみたいに思えて悲しくなってくるのだろう。
が、雨降って地固まる。今では「ジーパン化」が頓挫してよかったとすら思っている。
というのも、仮に私が夢のなかで「明日からチノパンを穿けばマッハの勢いで出世する」という神託を授かったとしても、私が「ジーパン」である以上、チノパンを穿くことは許されない。
そこを横車を押してチノパンを穿いたところで、あの人「ジーパン」なんて呼
ばれてるくせにチノパンを穿いてるわ、根性なしね、いひひ、なんてせせら笑われ、また、私が「ジーパン化」を宣言した場に同席した人々は「裏切られた」と感じるだろうし、そうなれば私は信用を失い、罵倒され、孤立し、果ては会社をクビになって江戸川の河川敷に仮設テントを張り、公園のハトに餌をやりながら呆然とする、なんて状態に陥っていたとも限らない。
「ジーパン」という愛称ひとつによって社会的に抹殺されていた可能性があったわけである。嗚呼、恐ろしや、恐ろしや。危機一髪でしたね。
こうして私の「ジーパン化」はしめやかに幕を閉じた。
嫁にその話をしたら、「ジーパン」はダサい、イモ臭い、恥ずかしいなどなど徹底的に扱き下ろされ、独り部屋に籠ってしくしく泣いた。
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なんていきなり失笑を買いそうだが、まったき真実だから嘘をついても仕方がない。
で、どのいっときかというと、サービスアパートメントと呼ばれる海外からの長期滞在者を対象としたホテルでフロントマンをやっていた頃だから、かれこれもう五、六年前の話か。ときの流れはかように早い。光陰矢のごとし。そういえばもう師がスタコラ走る師走だし。
とにかく、その職場では「ジーパン」の愛称で呼ばれていた。
そういう愛称が与えられた経緯はざっとこんな具合だ。
私はこのホテルのオープニングスタッフのひとりだったので、当然のことながら、同僚たちもみなオープニングスタッフであり、そういう意味でも、すでに社風というか、一種の空気のようなものがまだ確立しておらず、まるで粘土をこねるように自分たちでいかようにも職場を造形していける幸運な環境にあった。がゆえに、同僚たちのあいだには大学の同期生が感じるような連帯感が芽生えていたように思う。
とにかく、そういう同僚たちが初めて一堂に会し、チェーン系の飲み屋で酒
を酌み交わし談笑に興じた。顔合わせってやつである。
で、宴もたけなわになった頃、せっかく一から始めるんだからとだれかが切り出して、だったらいっそのこと、全員のあだなを一新しちゃいましょうってな展開になった。
これはチャンスだと思った。
なんとなれば、自分の名前が一生涯変わらない以上、それにつきまとう愛称というやつも子供の頃からたいして変化しない場合が多く、ともすればマンネリ化してしまう恐れすらある。タラちゃんは成人しても結婚してもジジイになってもいつまでたってもタラちゃんってな具合に。
だが、そのマンネリを打破する、一生に一度あるかないかの稀有な機会が訪れたのである。
だから私は「ジーパン」にしたのだ。
憧れの漢、松田優作にちなんで。
あと、単純にジーパンが好きだったから。っていうか、ジーパン以外のズボンは一本も持っていなかったし、穿く気もなかったよね、ロックじゃないから。
長くなりそうなので次回に続く。
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