クマと炬燵
「クマがいるから見といて」
出がけに、妻はそう言った。鎮静剤で眠らせてあるけど、もうすぐ目を覚ます時間だから、と。炬燵でごろごろしていた私は妻に言われるがまま、ああ、わかった、と気のない返事をした。妻は出ていった。
炬燵から体を起してみた。狭いワンルーム(キューブタイプというのだろうか)だが、不思議と息苦しさは感じない。むしろ、どこまでも広がっていくような感覚を抱かせる形状だ。何の気なしにテーブルの向こうに眼をやると、黒い物体がうごめいていた。一段高くなった床の間に毛むくじゃらが
寝転んでいる。
あ、クマか。なるほど、鎮静剤が効いているらしい。かすかに息を洩らしながら、丸めた背中をこちらに向けて寝入っている。ふーん、クマって意外と小柄なんだな。全身がまっ黒な松の葉のような毛で覆われていた。それらが寝息に合わせてリズミカルに、ゆっくりと上下する。怖さはなかった。
と、クマがむくりと起き上った。鎮静剤が切れたのだろうか。それとも、端からそんなものは注射されていなかったのか。だとしたら、これは妻の陰謀だろうか?
そうやって思いを巡らせていると、クマがくるりと振り向いた。少年時代に七夕の夜店で見かけた、ひょっとこの面に似た愛嬌のある顔をしていた。しかも、前歯が二本、ビーバーのように突き出ていた。
寝起きのせいだろうか、クマは私に気づいていない様子で、何のためらいもなく、慣れた所作で頭から炬燵の中にするすると入っていった。私は炬燵から足を出した。万が一、咬まれたりしたら大変だ。笑える顔をしていようがいまいが、腐ってもクマだ。私を暗殺するために送り込まれた刺客かもしれないのだ。
クマは炬燵の中をするすると這い進むと、反対側から(つまり、私がごろご
ろしていた側から)にゅっと丸い顔を出した。
さすがに、クマは驚いたようだった。まさか、炬燵を出たら自分以外の動物がいるとは思わなかったのだろう。元来、クマは臆病な動物なのだ。丸い顔に光るつぶらな瞳はさらに丸くなり、突き出した前歯は小刻みに震えていた。
それにしても丸い顔だ。やはり、怖さはない。慣れてしまえば、クマも猫も変わらないのだろう。結局のところ、世界はひとつなのだ。
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