ナツメグ歩記

ナツメグ歩記・頁4

_b0527652009年10月30日(金)

12時00分

日本動物高度医療センター

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日本動物高度医療センターは多摩川沿いにあった。

近代的なファサードはおよそ動物病院らしくなく、研究施設のような佇まい。自動ドアも動物が飛び出さないよう二重になっていて抜かりがない。

一流ホテルのフロントと見紛うほど重厚な受付。ゆったりとした清潔な_b052763ロビーは、そこいらの総合病院(ニンゲン用)よりも立派なくらいだ。

ふと見ると、優しい眼をした大柄なラブラドールがご主人の傍らにちょこんと座っていた。特に悪いところはなさそうだが、ここへ来る以上、外見からは判断できない重い病気を抱えているのだろう。

ナツメグと同じように。

問診票に必要事項を書き込み、ロビーで呆然と待つうちに、三番の診察室に呼ばれた。

Pb052759 中に入ると、研究員風の恰幅のよい先生が待っていた。胸のネームタグに物々しい「脳神経科」の文字が見えた。

診察が始まった。

トンカチのような器具でナツメグの冷たい脚をコンコンとたたきながら、先生が、まずいね、とつぶやく。そしてまた、まずいね、と。

確かにまずかった。今や、ナツメグの麻痺は上半身に及んでいた。持ち前の闘争心もついに底をついたのか、診察台の上で紐の切れた操り人形のようにぺしゃんこになっている。左手がほとんど動いていなかった。

さらに眼の反応も鈍っていた。先生が眼の前で手を振っても眼をつぶろうと_b062766 しない。黒目がまったく手の動きを追わなかった。

麻痺がどんどん進んでいた。昨日の朝までは元気だったのに、今ではもう首を動かすこともままならない。神のいたずらと呼ぶには過酷すぎた。

「やはり脳でしょう。水頭症か、腫瘍のせいか。MRIを撮ってみないことには何とも言えませんが、非常に危険な状態であることは確かです。決断を急がれたほうがいいでしょう」

決断。

_b072817そう、ニンゲンと違って動物のMRIは麻酔をかけて行う。ミリ単位での精密さが要求されるため、じっとしていられない動物を眠らせる必要があった。

ただ、場合によっては眠りから醒めないことがある。

要するに、死ぬ、ということである。

MRIには通常でも死のリスクが付きまとう。そこへさして、今のナツメグの状態は傍目にも穏やかでない。危Pb042752篤に近い。麻酔から醒めない確率はぐんと跳ね上がる。

しかも、仮に原因が見つかり、運よく手術でそれを除去できたとしても、四肢の麻痺は残る公算が強いという。

だが、放っておけばナツメグはまず助からない。先生の顔にはっきりとそう書いてあった。

MRIを撮るべきなのか?

私たちは難しい決断を迫られていた。

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ナツメグ歩記・頁3

Pb0427512009年10月30日(金)

9時30分

M動物病院

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翌朝。

ナツメグはまだ生きていた。

後脚は麻痺したままだったが、まずは彼女が生きているという事実に安堵した。ご飯もけっこう食べた。

ところで、私たち夫婦は朝がてんで弱い。休日は午過ぎまで寝ていることもしょっちゅうで、友人に「朝一で集合」なんて言われるとそれだけで気が重くなってしまうという体たらくである。

しかし、この朝は別人だった。_b022703

普段なら目覚ましが鳴っては止め鳴っては止め鳴っては止めと延々やっている嫁も、目覚ましが「リン」と鳴った刹那、シャラップとばかりにぶったたいて黙らせ、記録的なスピードで支度に取りかかった。

私もつられて飛び起きた。もっとも、寝巻きと普段着をことさら区別しないという先進的な思想を持っている私である。支度は数分で済んだ。

午前9時過ぎ。かかりつけのM動物病院に到着。

_b022726いつもの学者風の獣医さんがナツメグを診察する。ナツメグは牙を剥いて小さく唸ったが、昨晩のように先生の顔を引っ掻こうとはしなかった。

後脚をつねっても反応がない。痛覚が失われている証拠だ。前手の動きも鈍くなってきている。感電による火傷も見当たらない。外傷もない。ステロイドの効果も見られない。脚の爪の先まで血は流れているので、心臓はきちんと機能しているようだが……

可能性が順々に消去されていき、先生がひとつの結論にたどりついた。

「もうMRIで原因を調べるしかないでしょう」Pb042756

MRI。

ニンゲンだって一生に一度お世話になるかどうかという高度医療設備である。当然、街角の動物病院に置いてあるわけもなく、先生いわく、藤沢の大学病院に予約を取って後日訪問するしかないという。

ただ、ナツメグの麻痺は進行性のものであるらしい。たとえ明日の予約が取れたとして、それまで彼女が生きていられるという保証はない。

_b022734私たちが途方に暮れていると、先生が思い出したように言った。

「そうだ。川崎に高度医療センターという新しい施設があります。民間の病院なので、飛び込みでもMRIを撮ってくれるでしょう。私の恩師が勤めておりますし、私から電話すれば今からでも診察してくれるはずです」

予約はあっさりと取れた。

この時点で、私たちは決めていた。どういう結果になろうと、一生、ナツメグの面倒をみていこうと。麻痺の原因は分からないが、我が家の中で起きたという事実に変わりはなく、すべては我々が背負うべきPb042753責任である。それは立派な決断でもなんでもなく、当然のことだ。考えるまでもない。

ただ、不幸な事故にしろ、未知の奇病にしろ、遺伝的疾患にしろ、避けがたい「運命」と呼ばれるものに責任の一端を肩代わりしてもらうことがいけないとは思わない。というか、そうでもしないと、ニンゲンは精神のバランスを保てない。

責任転嫁と言われれば、まあ、そうなんだろうが、そう言い切れる人はよほど心が強いか、ターミネーターのように冷徹かのどちらかだろう。あいにく私はそれほど強くない。

_b022721責任という概念はニンゲンの脳に対する負荷のようなもので、負荷がかかりすぎれば回路はショートする。心が参ってしまう。だが、ニンゲンの脳は都合がいい。つらい出来事も、脳が記憶の抽斗にしまい込んで鍵を掛けてくれるからこそ乗り越えられる。

ただ、責任が消えることはない。消えたとしたら、眼をつぶって見えないようにしているだけである。

私たちはナツメグに対する責任を負っているPb042755

生きていれば、このときの悲しさを数ある記憶のひとつとして追想できるようになる日が必ず来る。それでも責任は消えない。決して。

そこから眼を背けてしまっては、私たちにペット(こういう呼び方は好きではないが)を家族として迎え入れる資格はないだろう。

高度医療センターへと車を走らせながら、私はそんなことを考えていた。

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ナツメグ歩記・頁2

2009年10月29日(木)

21時30分

横浜夜間動物病院

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横浜夜間動物病院を訪れるのは二度目になる。

一度目は今年の六月にけろ号が膀胱炎になったときだから、半年と経たないうちの再訪となる。ここを訪れるときは猫たちの病状が一刻を争うほど悪いということで、訪れないに如くはないのだが、それにしても今回はタイミングが悪かった。

_b022706昼間、風邪をひいてうんうんベッドで唸っていた私は、普段ならトイレの掃除がてら猫たちと遊んであげたりするのだが、このときは熱のせいで心にそうした余裕がなかった。

風邪をひいていなかったら、もっと早期にナツメグの異変に気づいてあげら れたかもしれない。

悪いことは重なるというのは本当だ。不幸は忍び寄るタイミングを知っている。

診察が始まった。

キャリーバックから出して診察台の上に置くと、ナツメグがシャーと唸って先生を威嚇した。近づく者すべてを爪で引っ掻こうとするその姿はいつものナツメグで、私は彼女の闘志がまだ萎えていないことに安堵した。眼に力があった。

ただ、後脚はまったく動いていない。診察台に蹲ってシャーシャー言いながら、ぶんぶん前手を振っている。

ひととおり診察を終えると、先生が言った。

「特に外傷は見受けられません。心音も正常なので心筋症の可能性は低いでしょう。後はレントゲンを撮ってみないと何とも言えません」

待つこと30分。

先生に呼ばれて診察室に入ると、シャーカステンにナツメグの胴体部のレントゲン写真が数枚貼ってあった。

覚悟はできていた。

なにせ麻痺である。単なる風邪や骨折とは違う。神経に何らかの異常が起きていることは間違いない。例えばヘルニアとか。しかも麻痺は下半身全体に及んでおり、状態は極めて悪い。いずれにしても難しい病気であることは確定的だろう。

が、先生は意外な言葉を口にした。

「レントゲン上は何の異常も認められません」

私は正直、そんなバカなと思った。これだけの麻痺なら、例えば背骨がぽっきり折れてしまっているとか、まあ、そこまでは行かなくても、はっきりと眼に見える原因がレントゲンに映るだろうと思っていたのだ。

戸惑う私をよそに先生は続けた。

「背骨も正常ですし、腎臓の肥大もない。ヘルニアも起きていません。外傷もまったくない。レントゲンを見る限り、健康な生後半年の子猫ちゃんです」

念のため血液検査もやってもらったが、同じくまったく異常がないという。

「しかしながら、重度の麻痺を発症しているのは明らかですし、このまま放置はできません。おそらくレントゲンには映らない病巣があるのでしょう。残念ながら、当院の設備ではこれ以上のことは分か_a302670りませんが、最悪のケースを想定して、できるかぎりの治療を施しておきましょう」

後脚の動かないナツメグは長引く診察に疲れたのか、何の抵抗も見せず に、ステロイドや神経の抗炎症剤など計三本の注射をおとなしく打たれた。何かあったときに即時対応できるよう、点滴の針は抜かれずに、肉球の模様をあしらった包帯で腕ごとぐるぐる巻きにされた。

今夜のうちにできることはすべてやった。

後は明朝、あらためてかかりつけ医の診察を受けてから、その後の治療方針を模索することになる。

それまではナツメグの生命力に賭けるしかなかった。

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ナツメグ歩記

2009年10月29日(木)

20時30分

自宅

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ナツメグの後ろ脚が動かなくなった。

最初に気づいたのは妻だった。ナツメグは元々人慣れしていない雌の子猫で、保護してから2カ月経った今でも、私たちの姿を見かけるとうーっと唸ってからパソコンの陰にさっと隠れてしまうという有様だった。

そんなナツメグがカーペットの上に寝転んでおり、妻が近づいても唸りはするが逃げようとはしない。だから妻は喜んだ。ああ、ようやくなっちゃんが心を開いてくれたのかしら、と。

今までろくに触れなかったナツメグの体をそっと撫でてみて、妻は初めて気づいた。

ナツメグが逃げないのではなく、逃げられないことに。

「なっちゃんの様子がおかしい」

風邪をひいてベッドに伏せっていた私は、妻のいつもとは違う声音に冷たいものを感じながら、ナツメグのいる部屋に入った。

私が部屋に入ると、ニンゲン2人に見下ろされてさすがに驚いたのか、ナツメグはいつもの彼女がやるように本気で逃げようとした。

ただ、脚が動かなかった。

かろうじて動く両腕を床に這わせて、平泳ぎをするようにのろのろと逃げるだけで、実際にはほとんど動けていなかった。

後脚が麻痺しているようだった。小さな脚からぬくもりが消えていた。

麻痺の理由は分からないが、とにかく病院で診てもらうのが先決だった。しかし、すでに時刻は夜9時近く、かかりつけの病院はとっくに閉まっている。

確実なのは、以前けろが膀胱炎になったときに駆け込んだ横浜夜間動物病院だが、車で30分の距離とはいえ折悪しく私の体調が芳しくなく、保険に入っていないナツメグの診察料もかなりの額に上ると思われた。

と、妻が言った。近所に夜間でも急患を受け付けてくれる動物病院があったはずだわ、と。パソコンで電話番号を調べて電話してみる。

病院の対応は実に丁寧だった。

麻痺の原因はいろいろと考えられる。心筋症を起こして血栓ができ、後脚が麻痺したのかもしれない。ただ、通常は大人の猫がなる病気で、ナツメグのように生後半年弱ときわめて若い子猫がなるケースはゼロではないが稀である。外傷性の麻痺も考えられるが、いずれにしても、小さな病院では充分な設備がなく、正確な診断を下すことが難しいというのが答えだった。そしてすぐに処置をしないと危険だとも告げられた。

もはや一刻の猶予も許されない。

私たちは取るものも取りあえずナツメグをキャリーケースに入れると、一路、横浜夜間動物病院へと車を走らせた。

(ナツメグの現況を知りたい方はこちらのブログをご覧ください。本「ナツメグ歩記」では当時の状況をゆっくりと再構築していきますので。とら猫)

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